● 第1回日韓歴史教育者交流会(シンポジウム)実現までの道のり2002年3月23〜24日、 ソウル市内の成均館大学校で日本の歴史教育者協議会と、韓国の「全国歴史教師の会」による「第1次日韓歴史教育者交流会(シンポジウム)」が開かれました。日本側からは11名が参加し、2日間で韓国側からは70名の参加者がありました。民間レベルでの日韓歴史教育交流はこれまでも多様な形で行われていますが、「歴史教育者協議会」が正式な形で本格的な交流を行うのは初めてのことでした。これは2001年の「教科書問題」(扶桑社版の登場と、「慰安婦」記述など日本の加害面の削除や後退)を契機に、日韓民衆での連帯運動として生まれたものです。2001年8月に歴教協神奈川大会(横浜)で、「全国歴史教師の会」から3名の参加があり、「日韓教育者交流」と「日韓共同の教師用副教材づくり」の方向性が確認されました。2002年1月には、韓国大田市で韓国全教組の「第1回 真の歴史実践報告大会」が行われ、歴教協から3名が参加しています。その続編としてのシンポジウムでした。第1日目に、扶桑社教科書問題をめぐる不採択運動の成果と課題(宮原武夫氏)、日韓歴史教育交流史(糟谷政和氏+シン・ジンキュン氏)、ドイツとフランスにおける歴史教科書協議の研究(ナム・ハンホ氏+鳥山孟郎氏)を行いました。第2日目は、日韓双方の小中高教師が実践報告を紹介し、討議しました。テーマはすべて「朝鮮通信使」でした(そのテーマに至った経緯は省略)。 ● 第1日目 日韓双方における「愛国」「民族」の歴史教育の問題をどう見るか 日韓の歴史認識共有のための教育と言った場合、「愛国」「民族」の持つ溝は大変大きいものがあります。「加害」が主だった日本と「被害」が主だった韓国という歴史に加えて、戦後のアメリカの対アジア政策に乗る形で戦後保障が進められていったことも、問題をより複雑化しています。日本では、「愛国」「民族」教育は、徹底的に戦前の「軍国主義」に収斂されてしまった反省から、戦後民主主義では「忌避」される傾向がありました。アメリカの反共政策に伴い、戦前軍国主義の中心を担った者たちが「温存」されもしました。そのことが「歴史教育の歪曲」を頻繁に繰り返すことにもつながりました。韓国ではその反発もあって、徹底的な「反日」教育として「愛国」「民族」の問題が取り上げられてきました。もちろん、アメリカの反共政策とも合致した「北の脅威」に備えさせる意味も持っていました。戦後57年たった今、「「愛国」「民族」の歴史教育とは、愛することができる「民主主義を徹底させた」国をつくっていくことではないか」、「そのために歴史意識に責任を持つことが必要で、「良い教科書」をつくることは国家の仕事ではなく、国民が作っていくもの」という意見交換ができたことは有意義なものでした。アジアの民衆レベルでの歴史教育交流が、アジアの平和と民主主義に大きく寄与するだろうこと、しかし一方でその作業には長い歳月の努力が必要であろうこと、も共有したのでした。 ● 第2日目 「朝鮮通信使」の実践報告を通じて何が見えてきたか 日本側3名(木村 誠氏、三橋広夫氏、若杉 温氏)の報告は、いずれも千葉歴教協で「討論学習」を主に子どもたちの歴史認識を深める実践を積み上げてきたものでした。韓国側3名(チェ・ジョンスン氏、アン・ビョンガプ氏、パク・ウェスク氏)も、すでに千葉歴教協と交流したことのある方々の報告で、子どもの意見を引き出しながら、あるいは授業したことを人形劇などの手法を取りながら「生徒たちに再構成させ」て、歴史認識を育てようとする意図の感じられるものでした。「朝鮮通信使」を教科書記述通りの学習にすると、ともすると日本では、「対馬と朝鮮との関係を強調することによって、幕府と朝鮮王朝が対等な関係にあったことを軽視」、「文化交流の様子や影響が見えてこない」、「将軍の代替わりの時に朝貢してきたと誤解させる」恐れがあります。また、韓国では、「幕府の要請によって、しかたなく「進んだ文化」を日本に伝える役割を果たした」となる恐れがあり、「交流・友好」の中身が矮小化される可能性があります。17世紀初頭、日朝ともに東アジア世界の中で「友好」関係を築く必要に迫られていたこと、その思惑があったとはいえ、豊臣秀吉による「壬辰倭乱」直後の「戦後処理」を積極的に進めたこと、雨森芳洲の善隣外交(「誠心の交わり」の思想と実践)、日本の民衆との文化交流が盛んにあったこと、などを重層的に理解させるところに「教師の腕の見せ所」があります。それぞれの先生が、子どもの考えを引き出しながら、そうした課題に向き合おうとした様子がよく分かりました。 韓国でも、なかなか歴史の時間の中に位置づけて「考えさせる」学習を組むのは難しいようで、報告は「特設時間」「投げこみ教材」的に行われたものでした。(余談ですが、韓国でも2002年度からの新教育課程で、歴史は「より自国中心的」に絞られる傾向があるそうです。)近世の朝鮮通信使を扱うことの意義に、「近代以降の日韓関係の否定的イメージを払拭させたい」意識もあります。韓国側報告の中にも、認識を新たにした子どもたちも数多くありました。しかし、私たちが授業をしていくにあたっては、少数とはいえ、次のような認識(韓国側小学生)を念頭に置きつづける必要があるでしょう。この2名は「歴史が好き」で、結構難しい本も読める子どもです。韓国のこれまでの歴史教育の「典型的な成果の認識」と言えるでしょうし、「自分たちに都合の良い自国中心的な歴史認識を育てる」という意味で、日本での「つくる会」教科書に通じる部分があるように感じます。 「本当に朝鮮通信使を学ぶときはうんざりして死ぬかと思った。だけど先生がもっとこういう勉強をしなくちゃという一言に「どうせ学ぶことはしっかり学ぼう」と思って、眠たければ眠り、アクビもして・・・。書くことを書き、別のこともちゃんとやって送ったけど、もらったものもある(この学級は木村氏の所の小学生と文通をしている)。朝鮮通信使の時期の日本とわが国の関係、あんなに良かった食べ物に、良い態度で接してくれたのに、このごろ独島が自分たちのものだと我を張っているじゃないか。雨森芳洲みたいな人が自分たちの人だということを盾にしてたびたび騒いで・・・。また挺身隊にわが国の女性を連れて行っておかしなことをしたんじゃないか・・・。ぼくたちの組の学習紙を解いて要約をしなくちゃいけないし。やっと終わった。さっぱりした。・・・」「こんにちは。今度の手紙は先生が書けというので書くんだ。本論に入るよ。今日、授業時間にもっともおもしろかった授業と自分の感想を言うようにという質問を受けて、すごくうろたえて返事をごまかして、そのまま「あ、おもしろい」と言った。授業は雨森芳洲の授業だと話して。なぜおもしろかったかというと、そのままだと思った。率直に言って私の考えはそうじゃないんだけど。勉強する時はとってもいらだったけど、終わってみるとおもしろかったみたい。じゃさようなら。」 ●「歴教協の成果」と今後の日韓交流にあたって 全体討論の中で、これまで歴教協が追求してきた課題と成果の部分が明らかになったと思います。 ○ 「正しい歴史認識を得る」とは、「正しい歴史知識を知る」だけではありません。一人一人が持っている「常識」・「偏見」と歴史知識とを合体させつつ、子どもたちの討論の中から「正しいことを子どもたち自身がつかんでいく」授業を組織していくことが重要です。 ○ 「何のための相互共存か」が問われなければなりません。朝鮮通信使の件でも、「民衆にとっての朝鮮通信使」という視点が大切です。韓国の場合、通信使が韓国民衆に見えにくいという困難があります。しかし、歴史を見る場合、「民衆にとって何だったのか」という視点が重要です。 ○ 子どもが「学びたい」と思える構成を模索することが教師に求められています。 ○ 「学びたいこと」と「受験対策的教師主導授業」とを考えなければなりません。1時間ごとの変革を求めるのではなく、1単元ごとに子どもたちがどういう認識をつけていくかが大切です。 韓国でも子どもが変化してきていて、かつてのように、教師の言うことをそのまま暗記吸収する学習には、ついてこなくなりつつあると聞きました。韓国側からも「日韓の学生同士の討論が必要ではないか」という意見がありました。 今回の日韓歴史教育実践は有意義なものだったと思いますが、まだこうした実践は「少数派タイプ」であることをどうするか、「日韓共通の歴史副教材づくり」もその構成のあり方をどうするかではまだ溝が大きいことなど、継続した話し合いが必要であることが課題でした。また、通訳の問題についても、なかなか考えている通りのやりとりが難しく、「言葉の行間」を含めた本意が伝わっているかどうか難儀する場面もありました。 ところで、現地合流した秋田歴教協の茶谷十六氏から、次のような情報・宣伝がなされました。「「2002平和の行進 朝鮮通信使」が行われます。2002年7月24日にソウルを出発し、対馬を経て東京まで若者が行進する行事です。日韓両国が費用を負担することになっています。「現代版通信使」と言えます。また、わらび座が8月25日の秋田を皮切りに、東京、ソウルなどで「つばめ」を公演します。脚本はジェームス三木です。壬辰倭乱時に連れて行かれた女性と、朝鮮通信使として旅立つ若者を主人公にしたものです。音楽・舞踊は韓国の人が担当します。歴史教育は教師だけのものではなく、父母市民の広い活動であるべきだと思っています。」 今回のシンポジウムの全日程にわたって、朝から夜までNHKソウル支局による取材が行われました。サッカーWカップ後、「おはよう日本」の特集で放映される予定だそうです。また、「第2次日韓歴史教育者交流会」は、2003年1月に東京で開催する予定です。 |
2002年3月23日(土)シンポジウム開始直前場所はソウル市北にある成均館大学校内の教室 |
「「つくる会」教科書批判運動の成果と課題」について報告する宮原氏 |
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「日韓歴史教育交流の歴史」について報告する糟谷氏 |
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糟谷氏の報告にコメントを加えるシン・ジンキュン氏 |
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第1日目の会場の様子 |
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「ドイツ・フランスの教科書」について報告するナム・ハンホ氏 |
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ナム氏の報告にコメントを加える鳥山氏 |
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夜の交流会(会食)風景 |
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2日目は日韓の小中高の教師が「朝鮮通信使」の授業実践の報告をした。日本・小学校教師の立場から報告する木村氏。 |
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韓国・小学校教師の立場から報告するチェ・ジョンスン氏。 |
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韓国・中学校教師の立場から報告するアン・ピョンカブ氏(左から3人目) |
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日本・中学校教師の立場から報告する三橋氏。 |
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第2日目の会場の様子。2日間で韓国側から、のべ70人程度の方が参加した。青年教師、女性、大学院生などの姿が目立っていた。 |
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日本・高校教師の立場から報告する若杉氏。 |
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韓国・高校教師の立場から報告するパク・ウェスク氏(右から2人目) |
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会場からの質疑・意見表明も盛んに行われた。 |
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シンポジウムが終わり日韓歴史教師の記念撮影。 |