<キッズコーナー 地理>

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▼県庁所在地はどうきめられたか
県庁所在地をみると、県名と同じ都市と違う都市があります。何か理由があるのでしょうか。   (千葉県 中学一年生)
回答 宮原武夫
■一 県名の謎
日本全国の四七都道府県のなかで、二八府県が県名と県庁所在都市名が同じ名称なのに、一九都道県だけが違うのはなぜか、不思議なことですが、それには、理由があります。
一八六八(明治元)年閏四月に、明治政府は、旧幕府の領地を府・県と改め、将軍家を含む元の大名の領分を藩と名付け、その城下町の地名を藩名としました。行政区画としての藩の名称が、公式に使用されたのはこの時からです。一八七一(明治四)年七月の廃藩置県の時には、藩名をそのまま県名としたので、この時には、北海道の開拓使を除く三〇五の府県名と府県庁所在都市名は、すべて名称が一致していました。
府県名と府県庁所在地名が違ってきたのは、実は、一八七一年十一月以降です。廃藩置県が成功した後、三〇五府県を旧の国の規模の六三府県に統合する時に、名称の違う県が生まれてきたのです。その間の事情について、いくつかの理由が明らかにされています。
■二 県名は旧大藩の名称を使用する
明治時代の府県制は、大蔵省の原案では、古代からの国を重視し、三〇〜四〇万石程度の財政規模にし、県名はそのなかの旧大藩の名称を使用する計画でした。しかし、幕末の戊辰戦争で、幕府の側について新政府軍と戦った地域では、明治政府に対する不満が残っていました。そして、年貢が重くなるとか、キリスト教の異人がきて県政を自由にするとかの不安と流言が広がるなかで、旧藩主の上京に反対する一揆や、県庁の役人を殺傷する事件がおこりました。
そこで、仙台県・小田原県・松江県などの役人から、すでに世の中が変わったことを人々に徹底させるために、県名を変更してほしいという願いが相ついでだされました。 そして、仙台県は仙台市のある宮城郡の名を県名にし、松江も島根郡の名を県名にしました。小田原県は、外国貿易港のある小さな神奈川県に合併されました。
これらの県では、なぜ旧国名より下級の行政区画で、しかも県内の一部の地域の名称である郡名や港名を採用したのでしょうか。
■三 県庁は旧城下町が便利
県庁は、行政の効率から考えて、交通の便利な旧の城下町に置くのが政府の方針でした。しかし、この方針に反して、城下町に県庁をおけなかった県がありました。
埼玉県は、城下町である埼玉郡岩槻町に県庁をおく予定で埼玉県と改称したのですが、旧藩士の反対で、足立郡浦和に県庁を移しました。
印旛県は、城下町である印旛郡佐倉町に県庁をおく予定で印旛県と改称しましたが、藩士の反対で県庁は行徳・流山と移りました。そして印耀県と木更津県が合併した一八七三年に、県庁は千葉郡千葉町(佐倉藩の港) にきめられました。
石川県は、城下町の石川郡金沢町に県庁をおく予定でしたが、港町の同郡美川町におきましたが、不便であるため、不平藩士がおとなしくなってから金沢に戻りました。 青森県も、城下町の弘前町にするはずなのに、弘前藩の港の青森に県庁をおきました。
これらの県では、なぜ県名として旧藩名を用いずに、それより下級の郡名を用いたのでしょうか。
■四 明治維新の復讐
これまで述べたような県名の謎を解いてくれたのは、宮武外骨というジャーナリストです。宮武氏の研究によれば、一八七一年七月の廃藷置県の後、三〇五の府県を六三府県に統合する時に、密かに明治維新の復讐(論功行賞)のための県名の変更が行われたというのです。すなわち、明治維新(戊辰戦争)の時に、朝廷への忠勤を誓って新政府軍に参加した藩の名称は、そのまま県名として残されたというのです。これに対して、幕府に味方して戦ったために朝廷の敵とみなされた藩、あるいは曖昧な態度をとったとみなされた藩の名称は、たとえ大きな藩であっても、その名称は一方的に消されて、旧国名よりも格下の郡名が付けられたというのです。
そういわれれば、これまで例にあげた仙台藩・小田原藩・松江藩・岩槻藩・佐倉藩・金
沢藩・弘前藩などは、いずれも戊辰戦争の時に幕府側についていた朝敵藩か曖昧藩です。県名と県庁所在地名が一致している千葉県の場合でも、大きな佐倉藩の名称が消されて、千葉郡という郡の名称が県の名称になった点では、復讐だったのでしょう。
しかし、この事実は、明治維新直後に複雑な藩の移動(転封・減封など)があって、地域によっては忠勤藩と朝敵藩との区別が曖昧になったことと、郡名以外に港名(神奈川・新潟・兵庫・長崎)や『古事記』にでてくる神の名(愛媛=湯姫)などが含まれていたことによって、政治問題として表面化しなかったというのです。
そして、このような策略の発案者は、廃藩置県の時に府県監督の責任者であった大蔵省次官の井上馨(山口藩)で、長官の大久保利通(鹿児島藩)がこれに賛成したのだろうと宮武氏は推定しています。
明治維新の復讐として、朝敵藩や曖昧藩の名称を県の名称から消してしまったという宮武外骨の説は、県名を変更しなければならなかった廃藩置県当時の民衆や不平藩士の動向を考えあわせると、歴史の事実の正しい説明になるのでしょう。
宮武氏の研究は、田中彰氏の『日本の歴史24/明治維新』(小学館、一九七六年) で、明治維新の性格を考える上で重要な史実であると評価して紹介されています。 
【参考文献】
宮武外骨『府藩県制史』八九ページ、名取書店、一九四一年(復刻版は崙書房、一九 七三年)。
松尾正人『廃藩置県』二〇二ページ、中公新書、一九八六年。
宮原武夫「県名と県庁所在地名はなぜ違う−−廃藩置県と民衆−−」『日本史100話  /下』 あゆみ出版、一九九〇年。
▼インドでの仏教衰退
どうしてインドにおこった仏教が、インドでは衰退したのですか? どうしてインドでは根づかなかったのですか?  (秋田県 中学三年生)
回答 菊地宏義
■はじめに
この質問はよくだされます。誰でも疑問に思うからです。現在のインドの仏教徒は三八一万余人(人口比〇・七%)という状態です。インド人の圧倒的多数はヒンドウー教徒であり、決して仏教国とはいえないのです。山崎元一著『世界の歴史三 古代インドの文明と社会』(中央公論社)が、この問題をとりあげています。この本の「仏教はなぜインドで衰亡したか」(三一一ページ〜) を中心に、鳥山孟郎「仏教はなぜインドに根づかなかったのか」(歴教協編『一〇〇問一○○答世界の整史』河出書房新社)、内藤雅雄「仏教の衰退」(歴教協編『知っておきたいインド・南アジア』青木書店) 奈良康明『インドの顔』(河出書房新社)などを参考に考えてみましょう。
■都市の興亡と仏教
山崎さんは、その理由を外的な三要因と仏教自体の二要因に整理しています。
*外的要因〜@都市の衰退、Aヒンドウー教の発展、Bカースト社会の形成
*内的要因〜C地域社会との結びつきの弱さ、D仏教のヒンドウー化
第一の要因は都市の発展が仏教を産み育て、都市の衰退が仏教の衰退をもたらしたということです。つまり、仏教は都市型の宗教で、都市または交易路の周辺に僧院が建てられ、僧たちは都市の大商人や王侯たちの寄進で生活をしていたのです。マウリヤ王朝時代に仏塔を寄進した人々の職業分析では、「王室の人々、官吏、資産者、商人、組合長、手工業者などで、とりわけ資産者、組合長の寄進が圧倒的に多い」 ことが指摘され、農民の事例は一つもないという研究があります。
この紀元前六〜五世紀頃の都市と都市文化はどのようなものだったのでしょうか。ガンジス河上流地帯の発展したバラモン教文化は、紀元前八〜六世紀にかけて中・下流域にも広がります。この地域は一大森林地帯であり、彼らは鉄器の助けと、耕牛による耕作を発展させて、次第にこの地域を開発していきました。すると雨季には適量の雨が降る気候条件がよい地域の農業は発展して、商工業と都市が急速に勃興していきます。この新興都市の生活は伝統的なバラモン文化やカースト制度をゆるがし、かわってクシャトリアやヴァイシャが発言力を増します。バラモンの祭祀に牛が供儀として殺されますが、農民にはますます大切な動物になっていきます。このようなバラモン文化の動揺のなかで、都市から仏教もジャイナ教も生まれていったのです。
仏教とジャイナ教の開祖は、ともに非アーリア系でクシャトリア出身といわれます。ガウタマ・シッダールタは、ヒマラヤ山麓のネパールに近い釈迦族の国、カピラバストウの王子、ヴァルダマーナは当時商工業の盛んなリッチャヴィ国の王子でした。二人はともに、牛を殺し神にそなえるバラモンの祭の有効性を否定し、不殺生を戒律とし、カーストを否定し、プラークリット語という民衆語(バラモンは難解なサンスクリット語)で語ったのです。それに同調した都市の富裕な商人たちのなかに、組合長(シュレーシュテイン)・資産者・長者(ガハパティ)がいました。祇園精舎を寄進したスダッタ長者もその例です。
■カースト否定の難しさ
第二・第三の外的要因は、ヒンドウー教の発展とカースト社会の形成です。バラモン教批判で受け身にたたされたバラモン教は、挽回をこころみヒンドウー教を生みだします。バラモンたちは、教典『ヴェーダ』にない非アーリアの神をうけいれ、牛を神聖化し、仏教に学んで神像崇拝や聖地巡礼などをはじめます。一言でいえばバラモン教の大衆化です。そしてインド民衆の冠婚葬祭・通過儀礼とむすびついていきます。
しかし仏教では、僧院の僧侶は、一般信者の日常には関係せず、仏教信者の日常は、バラモンにまかされていきます。第四の内的要因とはこのことをさします。仏教と一緒に生まれたジャイナ教が、僧と在家信者の緊密な相互扶助の関係を結び、今日まで存続しているのと対照的です。
次にカースト社会の形成は理解しにくいのですが、基本的な四つのカーストだけでない現在あるような複雑なカースト制は、七〜八世紀ころから成立してくるといわれます。生まれを意味する「ジャーティ」とは、先祖伝来の職業とむすびついた自治的機能をもつカースト集団です。「ジャーティ」 は、同一カースト内の結婚や、食事やタブーなどの掟が細かく決められた排他的な集団です。このカーストは生活の保障や相互扶助ともからみあい、人々の支持のもとにインド社会の基本となります。ヒンドウー教はこの流れとむすびつき、カースト制度を原理的に否定する仏教は、この流れのなかで排除されていくのです。
インド中世は、都市が衰退し、バラモンを指導者とする農村社会が大勢をしめていきます。今でも残るカースト差別と平等原理の不徹底とは、仏教の衰退と関係があるのです。ガンディーやネルーとならぶ有名人で、インドの ″憲法の父″ といわれるアンベードカルの仏教改宗事件はこうしたなかでおこりました。
■仏教は非インド的なのか
他方で、仏教側での民衆化の努力もありました。ヒンドウー教の神々が仏教のなかにもとりいれられ、礼拝されたのはそのためです。柴又の帝釈天、江ノ島の弁財天や毘沙門天、竜神、明神などはヒンドウー起源の神様です。しかしこのような仏教のヒンドウー化は、やがてヒンドウー教に仏教が吸収されていく原因にもなります。こうしてヒンドウー側では、釈迦もビシュヌ神の化身としてとりこみ、仏教をヒンドウー教に吸収していきます。
中村平治さんが『インド史への招待』 (吉川弘文館) で、仏教教団が「巨大な寄進を受け取る過程で、いつしか安楽な生活を当然のこととするようになった。かくして比丘は仏法の研鎮と修業を二の次として、蓄財に精をだした。また女性に仏門を開いたのは画期的だったが、僧院がはどなく比丘と比丘尼との遊び場に化した」と述べていることも参考にしたいものです。